ココロノイロ

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BUMP OF CHICKEN「飴玉の唄」

ずっと書けないと思っていた曲のレビュー。
今なら書ける!という予感がして、やりはじめたら半月かかった。

★BUMP OF CHICKEN「飴玉の唄」

orbital period

orbital period

  • アーティスト: BUMP OF CHICKEN
  • 発売日: 2007/12/19

これは2007年のアルバム『orbital period』に収録されている曲。実を言うと、当初は導入部しか聴かずに通り過ぎていた曲のひとつだった。「飴玉の唄」なんてタイトルだし、隠しトラックに近い感じなのかと甘く見ていて。それがひょんなことから通しで聴いてみた夜があって、そこでビンタ張られたくらいの衝撃を受けて(笑)最初は「ふーん」って感じなんだけど、聴き進めていくうちドカーンとなるから驚かされる。引き込まれるときは、もうそれが全てみたいな気分になる。

★テーマは「信じる」
この曲は、僕は君を信じたから君と離れたくないとずーっと歌っていて、パッと聴くとラブソングに見える。でも藤くんが作る曲って、いくつかのキーワードが的確な配置で絶妙に合わさっていって、そこに彼の死生観も見え隠れしてくるんだけど、それらの先にあるものがその曲で言いたいことなのかなって感覚があって。だからとても面白くて、ずーっと聴いてしまう。
私が思うこの曲のテーマは「信じる」かな。「信じる」とはその人の中の事であって、なかなか他者には見えにくいし、伝えるのは難しいことかなって思うんだけど、ここではそれを一貫して歌うのです。冒頭から「僕は君を信じた」と歌っていて、デカイこと言うなぁなんて思ってしまうんだけど、この僕はそう断言している。藤くんが歌う信じられるものはやっぱり「生きているもの」なんだなぁなんて思う。

この曲の解釈は、「僕」「君」「飴玉」「神様」の関係を見ていくと読み取れる。
★「飴玉」の役割
主人公の「僕」は、泣いている君に飴玉をあげるんだけど、「信じる」という大きなキーワードが先に登場しているせいか、「飴玉って何?」と思ってしまう。タイトルにもなってるくらいこの曲の象徴となるものなのに、私にはその意味がわからずにいて。だから、この曲の全体像がはっきりしないままだった。僕から君へ手渡したはずの飴玉は、こんな風に表現されていく。

何光年も遙か彼方から やっと届いた飴玉だよ

僕と君の実距離と心の距離はイコールではないということを表現しているみたい。実際は近くにいても、相手が宇宙の果てくらい遠くに感じられるときもあるもんね。信じた相手ならなおさら感じるんじゃないかな。
いろんな人の解釈を読んだけど、きっかけとなったのはやっぱり藤くんの発言だった。
・藤くんは飴玉が好きだということ。
・自分が好きなものだからあげたいという思いがあること。
そこから、字面では間抜けとも言える飴玉の、この曲での役割に気付いたのです。

★「神様」との対比
僕は君を信じると歌う中、サビには「神様」が登場する。「神様」と「君」、信じる対象の対比です。

見えない神様 僕らは祈らない
冷えきった君の その手に触れて 心を見たよ

このサビ、メロディと藤くんの歌い方にも神様と君の対比が効いているところが素晴らしい。1行目(神様)は不変を彷彿とさせる堂々とした歌い方で、2行目(君)はファルセットで儚さを出しながら、最後は揺るぎない声で歌っている。2番のサビ直前には、ドラムのドンッという音が入るんだけど、これによってより次のサビの重みが出ていると思う。ガツンとくる。

死なない神様 僕らは祈らない
咳をする君の 熱に触れて 命を知るよ

そして、サビでは僕の信じるものがより具体的になっている。冒頭では「君」だったのが、君の「心」と「命」であると。この2つのサビで重要なのは、君の「手」と「熱」、それに僕が「触れる」ということ。ここには「生」を感じる。以前、藤くんにとって絶対に嘘をつかないものは温度だという話があったけど、触れて確かめられるものが確かなもので、それを介してならば見えないものも伝わる、実感できるってことなんだろうね。信じるもの、ここでいう自分にとっての絶対的存在は、人知を超えたもの(=神様)ではなく、自分と同じ限りのあるもの=生きているもの、触れられるもの(=君)としている。哲学的でも宗教的なものでもなく、信じるものを「人間」というものから離れないところで見出している点が特徴的です。

★救世主「飴玉」、その先に見えるもの
ところで、信じるものを得たとき、怖いことは何だろう?
・信じたものが「変わること」
 →【どうか 君じゃなく ならないで】
・自分のそばから「遠くに行ってしまうこと」
 →【君が消えたらどうしよう】
 →【いつか君と 離れるなら いっそ忘れる事にしよう】
信じるのは実体のわからない存在(神様)よりも、実体のある近い存在(君)。
だけど、いずれ終わりが来る。その葛藤。そういうことを考えると止まらなくて、何も解らなくなると歌う。じゃあ信じたものが神様のように見えなくて死ななかったらいいのかと言ったら、それも嫌だ。でも、なくなってしまうのも嫌だ、離れたくないと叫ぶ。それが歌われている部分は、感情そのものが声になって、だだをこねるみたいな歌い方をしている。そうやって、ぐわぁ~っと僕の内側に引き込まれていると、フッとこのフレーズが出現する。

飴玉食べた 君が笑う

冒頭で僕が君にあげた飴玉、再登場。このワンフレーズが、「信じる」ことを見事に表現している、この曲のキモです。なんてことない歌詞だけど、これに優る描き方はないんじゃないかな。 自分の好きなものをあげたら、泣いてた相手が笑った、その瞬間に得たもの。それを信じる、ということなんだろうね。好きなものを好きな人にあげて、その人が笑顔を見せてくれたら嬉しいもの。その、嬉しいっていう気持ちが信じられることに繋がっているんだと思うの。イコールとも言えるかな。
自分の行動から得た相手の反応をきっかけに、自分の中に生まれる感情、それこそが信じられる要素であるというか。信じるものは「生きているもの」であり、その存在との関わり合いの中で得られる「自分の感覚」でもあって、後者があってより前者が信じられるという構造になっているんじゃないかな。
「飴玉」は、僕と信じたもの(=生きている君)との心の距離をつなぐ役割を担っているんだね。言い換えれば、信じたものをより信じられると思わせてくれるきっかけを与えてくれるもの。ちなみに、その「飴玉」も限りあるもので、神様とは対となるものなんだよね。面白いことに、曲中に「飴玉」も「神様」も3度ずつ登場するんだけど、意図的になのかなぁ。回数では同じでも、3度目の「飴玉」によって放たれる光は相当なものがある。信じる!となったときの人間はこんなにも強いのかと思うほどに、これ以降の藤くんのボーカルは眩く光っている。この強さは、藤原基央という人間にも重なる。そして、結論へ。

勝てない神様 負けない 祈らない
限りある君の その最期に触れて 全てに勝つよ

神様には「勝てない」けど、それでも「負けない」とまで言い切っている。この強さはすごいな。このあと出てくる「僕らの世界」も、神様と同じように「見えない」し「死なない」。現実世界というものは、僕らが死んでも続いていくからね。そういう漠然とした、途方のないことよりも、今の自分とその身近だろってことなんだよね。生きるということはそういうこと、というか。限りのある者が、無限のものを信じて祈るより、同じ有限のものの中から信じられるものを得ていた方が、生き方としては怖くないんじゃないかなぁと思う。
2行目のフレーズは、他曲でも歌われている、藤くん特有の《ロストをゲットする感覚》の表れに見える。「全てに勝つ」とはどういうことだろう?今の私には言葉がみつからない。信じたものの終わりが先に訪れたとしても、それでも自分の命は続いていくから、「信じた」ことが消えるわけではない、変わらないということなのかな。
私にとってこの歌は、自分の中に在る柱に対して響く歌でね。それこそ「信じる」ことで成り立っている部分。こんなこと書いてるとなんだか長澤くんの「三日月の誓い」との対比みたいになるけど(笑)藤くんの歌を聴いていると、羨ましいって思うことが多いよ。自分は持っていない強さだなって。私もそんなふうになりたいって。
はじまりは一方通行で自分勝手なことかもしれない。でも、信じた対象との関わり合いから生まれる感覚・感情によって、より強固な「信じる」へと変わっていく。結局「信じる」ものは、限りあるものから得られる僕の心そのもので。それが、命を燃やす(生きる)原動力になっているんだと思う。
有限であるからこその輝き。この曲も「ゼロ」への解釈に繋がる大事な1曲。